このようなご挨拶をさせて頂きました。
本日ここに、神戸大学付属明石小学校が、明治37年(1904年)、司馬遼太郎さんの小説「坂の上の雲」にかかれている日ロ戦争中に、開校して以来、その長い歴史に終止符をうつことになりました。明石という名前がなくなります。本当にさびしいことですが、私は、今日の日を、この小学校の、新しい出発と考えたいと思います。
ところで、私は、現在、参議院の外交防衛委員長をつとめております。各国の、外務大臣は、日本の外務大臣とお会いしますが、各国上院の外交委員長は、参議院の外防委員長である私のもとに、いらっしゃることが多いです。ですから、世界の、いろいろな国のことを、事前に勉強しなければなりません。そして、楽しいこともあります。委員のメンバーに、元プロレスラーのアントニオ猪木さんがおられます。私の学生時代のヒーローです。委員会のはじめの冒頭の質問に、「元気ですかー!」と叫ばれるのには、驚きます。しかし、あの憧れの卍固めやコブラツイストといった技を教えてくれるものと、楽しみにしています。まさか、あのアントニオ猪木さんと仕事をするなんて、考えてもいませんでした。人生とは愉快なものです。
私は、昭和42年3月、今から47年前にこの小学校を卒業しました。この校舎に入って、この講堂に来て、この演壇にたち、感激しております。少年時代に戻った気がします。体育館のない時代、ここで学芸会をやりました。雨が降れば、教室で自習、先生がいなくなるのを見計らって、教室を抜け出し、この講堂の中で遊んでいるところを、先生にみつかって、立たされたことを記憶しております。
思い出すのは、もう50年前の昔、そして懐かしい友達のこと、お世話になった先生のこと、当時の明石の町並みのこと。1クラス43人でした。思い出すと、2人転校したから、45人いた時もありました。
私は参議院議員になる前に、兵庫県議会議員をつとめておりました。17、8年前のことです。都市再開発のことで尋ねたいことがあって、今の住宅公団、現在の都市再生機構の次長が、県議会へ説明に来て下さいました。
私の顔を見て、にたにた笑うのです。その次長が、自分のことを覚えていないか、と言うのです。しばらく経って、小学校の同級生の小坂君と分かりました。
その彼が、その当時、小学校6年生、卒業間近に皆が集まってかいた、「私の希望」という冊子を持ってきてくれました。コピーして、大事に置いておいたものを持って来ました。「率直な気持ちを皆が書いている」というのが、私の宝物なのです。
「ぼくの希望は、外交官です。ぼくは、外交官になって、日本の国をせおって立つような人になりたい。なぜ外交官になりたいかというと、外交官は日本の代表である。責任が重い、そういう仕事は、やりがいがあるからだ。」この彼は、風の便りできくと、政策投資銀行に入社され、頑張っておられます。
「冬季オリンピックの、選手になりたい。金メダルをとるのは、外国選手ばかりなので、世界記録を作り、外国の選手を「あっ。」と、言わせてやりたい。それから、三かん王をとり、日本は強い国だと、思わしてやりたい」
「ぼくは、マンモスタンカーの設計技師になりたいと思っている。その理由は、日本の造船業が、世界一であるからだ。20万トン、30万トンという、ばかでかいタンカーをどんどん作って、7つの海へ浮かばせたいのだ」
「ぼくは、電磁関係の科学者になりたい。磁力というものは、はかりしれない威力をもっていると思う。それをぼくが発見し、それを利用する機械を発明したいからだ。どんな威力をもっているか、今考えただけでも胸がわくわくする。」風の便りでは、彼は、車の設計士となっています。
「私は小学校の先生になりたい。そして、教える子どもたちが、小学校生活だけにしばられないで、のびのびとすごせるようにしてあげたい。そして、大きくなっても、広い心をもてる人に、してあげたい」
「私は、薬ざい士になりたいと思います。そして、がんのなおる薬を、作ってみたいと思いますが、私には無理かもしれません。でも、やっぱり、がんのなおる薬を発明したいと思います。」
実は、この「私の希望」という文集に書いた夢を、その後の人生で実現した生徒は、7、8割に及ぶそうです。やはり、小学校の卒業時の年齢で、しっかりとした志をたてることができるのだと思いました。だから、小学6年生のみなさん、志、将来の夢をしっかりと考えて下さい。これはとても大切なことです。