活動報告

2011-04-11
震災から一ヶ月がたちました

 今年の冬はいつもより長く寒かったように感じますが、東京も桜がやっと満開になりました。そして今日、東日本大震災発生から1ヶ月がたちました。被災地では、まだ亡くなられた方々の捜索が続けられていますが、一方で仮設住宅の入居が始まるなど、被災者対策は地震直後よりは進み、新たな段階に入ってきたように感じます。  しかし福島第一原発の放射能漏れは、周辺住民に対する避難指示の見通しなどが不明な中、農作物や魚類の安全性、さらには海洋や大気といった国際的な環境問題にまで問題が発展してきており、1日も早い終息を祈る毎日です。  こういう状況の中、被災地の現地調査に2回行ってまいりました。両方とも天候には恵まれました。 まず1回目からご報告します。1回目は3月23日、事務所のスタッフと共に3人で行きました。仙台市の南の名取市に、友人で前衆議院議員の西村明宏さんがおられ、お見舞いも兼ね、調査に行ったものです。ガソリンの心配をしながらの旅でした。  仙台空港近くのジャンクションで車を止めて車外に出てみるといきなり目の前に海岸線まで平地が開け、3~4キロくらいの間に一面ガレキの荒地、その中に壊れた建物、流されてきた自動車の残骸が点在するという風景が目に飛び込んできました。これが津波の跡かとショックを受け、阪神淡路大震災の時感じた恐怖感とはまた違う、全身から力が抜けていくような無力感でいっぱいになりました。  ガレキの山を横に見ながら、屋根の青いシートが目立つ名取市の町中に入りました。西村さんの事務所で待っていると西村さんは遺体安置所から帰ってこられましたが、日に数回は知人を探して安置所を訪ねるそうです。640人が亡くなり、約千人が行方不明と聞きました。亡くなった人々の中には、避難勧告で走り回っていた消防団員が沢山おられたとのことでした。  事務所には避難してきた家族が数組おられました。避難所では子供が騒いで気兼ねをするのでここの置いてもらっているとのことです。希望を聞くと、ずばり「お金がほしい」と言われました。  西村さんの案内で南の海岸沿いの町、山元町に入りました。かつて人家が密集していたJR常磐線坂元駅付近も、周囲全体が浸入した海水の中に建物の残骸や車が埋没していて、その中に駅の跨線橋だけが壊れずに残っているのが本当に寂しい風景でした。  自衛隊や消防団員の人たちが竿を持って捜索中でしたが、ちょうど遺体が一体発見され、私たちも思わず手を合わせていました。 次いで北隣の岩沼市に入りましたが、津波対策で建設されていた、神戸の方では見たこともないような巨大で頑丈な防潮堤が吹っ飛んでしまっていて、浜付近の集落も跡形がありませんでした。住んでいた人に聞くと、「もうここには戻って来たくない」とのことでした。  ちょうど訪れた日から兵庫県の職員が宮城県に応援に入っていると聞き、暗くなりましたが、石巻市に入りました。停電で市内は真っ暗でしたが、いきなり交差点に乗り上げたマグロ漁船が信号待ち風に居座っているのには驚きました。  市役所の中は避難者であふれ、市役所の職員が走り回って毛布などを配っていました。市内で避難所は144か所あるそうです。到着したばかりの、西播磨県民局の崎山さんら兵庫県職員6人の方と顔を合わせましたが、あの戦場のような場所で兵庫県の職員と出会うと感激しますね。他に、気仙沼市と南三陸町にも応援隊が入っているそうです。頑張って下さい。 遅くなったので市役所訪問だけで帰って来ました。  2回目は、今月5日に日帰りで、同僚議員の二ノ湯智参議院議員、中川雅治参議院議員と私、それにスタッフ3人を加え、仙台方面に見舞いを兼ねて現地調査に行ってまいりました。  訪れたのは、まずは仙台市若林地区、ここは地震直後に多数の死者が出たと報ぜられた地区です。以前は海沿いの広い平地に、農地と住宅地が続く風光明媚な地域であったと推察されましたが、今は他の地区と同様、ガレキと、流されて来た車の残骸で埋めつくされていました。  宮城県庁では、小野寺危機管理監から県全体の被災状況と復旧の状況、そして復興の困難さについて説明を聞きました。ただ仙台市街地を見た感じでは、一部の建物の立て替えや修繕と、ライフラインではガスの復旧が残っているという状態で、復旧は意外と早いと感じました。    石巻市では前回は暗くてよく見えませんでしたが、今回は街並みを見下ろせる日和山から街を眺めました。大きな船が何隻も陸に乗り上げていたり、港を囲む街並みは、地震、津波それに続いた火災でガレキの山、造船所や水産工場なども壊滅という状態でしたが、一方でこの町の人々の生活や仕事が本当に、海と一体になっていたことがよく分かりました。  また、この日和山付近で一定の高さ以上にある家は津波の影響を受けておらず、これからの津波に強い町づくりを目指した復興にヒントを示しているように感じました。    海岸部に広がる平地を農地や宅地として活用してきた仙台市若林地区や山元町のような地域、一方でリアス式地形を天然の良港として活用し、海と一体化した生活を営んできた石巻のような港町。同じ津波災害でもそれぞれ異なった条件下で被災していて、復興を進めるうえでもタイプの違う対策が必要です。これからは、復旧作業に平行して復興策の検討が始まりますが、地元の気持ちに立ち、地域の実情を汲んだ復興策が必要だと感じました。  東日本大震災は、原発事故とも重なって我が国に大きな危機をもたらしています。しかしこれから進める復興は、私も含めて、文明の進歩に甘えて、ともすれば人間として基本的な生き方を忘れがちになっていた日本国民に、生きることの意味を考え直すいいきっかけになると考えます。これを機会に新しい日本を創り出すことが、亡くなられた方々への最大の供養になると信じ、国政に携わる者として、精一杯頑張っていきます。(4月11日) ※ 写真はフォトギャラリーにアップしています